よしこばブログ

13年間の国税局勤務を経て転身した、フリーライター小林の日常

幸福論を読もう。

幸福論

角川書店

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今日も、予定はなかった。
相変わらず、何故か様々な人々からの返信もないし。
新宿へ出かけた。
特に理由はない。
天気が良かったから、出ようと思ったのだ。

どこに行けばいいのかわからない。
かといって今いる場所が居場所だとは思えない。
だから、出た。
歩くのも疲れるけど、仕方がない。
天気のよさを、日曜日があることを、幸せだと思うように努力していた。

結局、居場所は見つからなかった。
そうゆう時は本屋へ行く。
紀伊国屋

買ったのは、
魚喃キリコ「南瓜とマヨネーズ」
つげ義春「紅い花」
江國香織「泣く大人」
寺山修司「幸福論」

買って後、シアトルズでカフェモカを飲みながら読んだ。
「南瓜とマヨネーズ」を読んだ。
やはりというか、この人の描く漫画は痛い。
ダメだと思っても愛おしい。
愛されてないと思っても愛してしまう。
そんな、孤独。
そして、孤独。

そうしているうち、隣の席に女の子が座った。
顔を見て、驚いた。
ものすごくきれいだった。
しかしそれは、前向きな光をまったく放たない美しさであった。
おそらく、東欧あたりの血が入っているのではなかろうか。

しかし、もっと驚いたのは、足の細さだ。
よく見れば全身細い。
ピンクのTシャツとベージュの7分丈のパンツ。
そのパンツから出ている足が、異常に細かったのだ。
拒食症・・
年齢が、だから分からなかった10歳にも20歳にも見えた。

そして、行動が少しおかしかった。
向かいの椅子を、ミリ単位で少しずつ調整して、
コーヒーの乗っているプレートを、これまた
かなりの時間をかけて、向かいの椅子と平行にしていた。

プレートに乗っているのは、ありえない量のケーキとコーヒー。
ああ、きっと吐くんだろうな。と思った。
やはり少し食べてはトイレに行くということを繰り返していた。

何だかどうにもやるせなくなって、「大丈夫?」と声をかけたい衝動に駆られたが、
僕なんかが、立ち入ってはいけない領域にいるのだと思い、こらえた。
僕一人が、誰かを救えるだなんて、そんな思い上がり。
エゴだって、、絶対。

どうか、どうか、皆に幸せが降り注ぎますように。
苦しんでいる人々が、その分ありえないほどに幸せになれますように。

帰りがけに、寺山修司の「幸福論」を読んだ。まだ途中だが。
この本は昭和48年初版の本だが、
今でも、いや今のほうが響く。

少し抜粋。

~トーマス・マンの「政治を軽蔑するものは、軽蔑に値する政治しか持つことができない」
 と言うアフォリズムは、幸福の場合にもあてはまる。
 幸福の相場を下落させているのは、幸福自身ではなく
 むしろ幸福と言う言葉を軽蔑している私たち自身に他ならないのである。~

そして、最近の幸福論といえば、現状を楽しもうとか、受け入れようといった文言が踊る。
その悪い天気をも楽しもうという考えに対して、
寺山修司は、幸福は「悪い天気」そのものをなくするための
日常的な冒険の中にこそ、存する。
と、言う。

冒険だ、日常を根源から変えるのは。
でも、そうすることでしか、もう僕たちは救われないのではないだろうか。
やめよう。日常を。この人生を。
これは、死のうと言う意味では決してない。