よしこばブログ

13年間の国税局勤務を経て転身した、フリーライター小林の日常

無題

夏の朝の涼しさに、僕はけだるく目を覚ました。
夕べ焚いた香の香りがまだ残っている。
いつもは白檀のお香を使うのだが、夏が来るとふと沈香を買ってしまう。
この香りを恋人はあまり好きにはなってくれないのだが。
僕は恋人の肌に混じる沈香の香りを感じると、海を思い出す。
子供の頃にしか行かなかった海を思い出して、泣きそうになる。
とくに好きでもない海を思ってなきそうになるのは、
浮かぶ景色に少年の僕と少女の恋人が見えるからだ。
かつて出会いあうこともできなかった僕達は、今を共にしている。

今日は曇っている。見えるのは不機嫌な空と悲しげな建物だ。
タバコを吸わない僕は、また沈香を焚く。
 「またこの香りなの?」
僕よりいつも20分ほど遅く起きる恋人は、今日も正確に動き始める。 
 「うん・・夏だからね。今日、雨だよ。」
 「そっか。曇りの日はなんだか朝から眠いね。」
恋人は滑らかに身体をそらせながら欠伸をする。
それを見て僕は少しだけ微笑む。
黒のパジャマを着ている恋人はまるで黒猫のようだ。 
強い瞳だ。ブリジットバルドー、アンナカリーナ、そして・・
そして世界中の黒を集めて固めたような瞳は、僕をとらえる。

「さよなら」

無表情に口だけを動かして吐き出される言葉。
そして恋人は笑う。僕の困った顔を見て。
分かっている、この言葉に「さよなら」の意味などないことを。
だけど時々恋人は「さよなら」といわなければならない時がある。
そして僕はいつも同じように少しだけまゆをひそめて見つめるだけ。
どうゆう時に「さよなら」を告げられるか、それはまだ分からない。
もう今年で恋人と暮らすのも78年目なのだが。

ずっと昔にカート・コバーンが自殺したときや、
恋人を苦しめた父親があっさりと亡くなった時や、
「さよなら」の理由がわかることもあったが、
年々、分からなくなってくる。
もう、恋人にとって大切な人々は皆この世を去ってしまった。
もしかすると、いつの間にか恋人の「さよなら」は、
意味を変えてしまったのかもしれない。

BELLE&SEBASTIANのアルバム「If You're Feeling Sinister」をかける。
僕たちの好きな音楽はハードディスクに取り込まれている。
いつしかCDは音を鳴らさなくなった。
だから僕の部屋にある数万のCDは、
ジャケットによって存在を思い出すためにある。
僕の部屋で相変わらずの表情の広瀬香美川本真琴や・・
一時的に失われた過去が甦ったら、
ハードディスクで検索して再生する。
そしてまた忘れるのだ。

「さよなら」を発してから少しだけ落ち込んでいる恋人に紅茶を淹れる。
ベッドに並んで座って紅茶を飲む。
恋人は僕に寄りかかってきた。確かに感じる体温や重みは、
静かに切なく響いてくる。















なんてね