よしこばブログ

13年間の国税局勤務を経て転身した、フリーライター小林の日常

ステロタイプな幸福論における僕の立場

仕事に疲れてしまっている人はかなりいると思う。

「仕事ではなくなっていた
 仕事でしかなくなっていた」

BUNP OF CHICKENの「ギルド」という曲の中のフレーズだ。
僕は就職した時期に買ったアルバムの中の一曲だが、
僕はこの曲には励まされていたのか苦しめられていたのか
よく分からないところがある。

僕がバンプを好きながらも、好きだと言い切るときに引っかかる理由だ。
リアルは痛みだ。
リアルは人生だから、しかたがない。
ファンタジーよりは共感を呼び、だからこそ感動したり絶望したり。

仕事を楽しんでやろうという、転職関係の広告には一切共感をしない。
あれは、恐ろしいファンタジーだと思う。
僕はたとえば職場の環境に対する不満というよりは、
この世界の矛盾を強く感じてしまう。

世界が変わらない限り、職場を変えても仕方がない。
ならば自分を変えればいいというのも、都合のいい逃げだと思っている。

僕等は、考えなければならない。
失業率も過労も増えている。
鬱病になってしまう友人も増えてきた。
自殺者は法案が変われど減らないだろう。

「自分を変えれば」
というのはいかようにも解釈できる文言だ。
僕には
「自分さえハッピーなら他はどうでもいい」
今の世界ではそういう意味のような気がする。

変われない自己に
中指を突き立てるでもなく、
薄ら笑いで目をそらすでもなく、
向かい合うことが実は一番の解決だと思う。

僕を受け入れてくれる恋人がいる。
そして僕は彼女をどうあれ受け入れる。

そう。これは大きなステップだった。
逆説的だが、僕は恋人に愛されることで
自分を好きにならなくてはという、
ありがちな悩みから開放された。

僕を好きになる役目は恋人に任せた。
僕はこれから僕自身を好きにも嫌いになってもいい。

そんなことにとらわれていては現実は不幸せだ。
この世界では、
全ては先延ばしに進められる。
いつかの幸せを願って今の幸せを出し惜しみする。

正負の法則や、宿命大殺界や、それも多分あるんだろうけど、
だからって幸福から目をそらしちゃうのはおかしくない?

発展的な人生が全てだっていうことが僕には理解できない。
20年後の僕が、今の僕より下らなくってもいいんだ。
それは、自己の幸せとはほとんどかかわりがないから。
かかわりがあるとすれば、
それは発展していたほうが他者の目を気にせずにすむから
というだけのことだろう。

僕等はそろそろ、
誰かの幸福と自分の幸福を比べるのをやめるべきではないか。

家庭・車・庭付き一戸建て・預金残高・充実した保険・安定した職場

言葉にすると空疎な言葉だと思わないだろうか。
僕らの世代はおそらく、
こういったものに対して懐疑的なんだと思う。

この懐疑は、経済の発展にはマイナスの効果を生むだろう。
経済的にはマイナスだが、幸福論的には逆転可能だ。


格差社会は実はよいことだと思う。
格差のない社会の倦怠こそが大いなる欺瞞だ。
人が好き勝手生きてれば結果として格差はできるのだ。
そして格において下流でも高級でも、それぞれは楽しんでるんだ。

仕事したい奴は仕事してバリバリ稼げばいいし、
それよりは毎日少しだけバイトしながら
質素な生活の中できるだけ読書してたいという奴もいるだろう。

プライドや偏見や、そんな自分を傷つけるだけのものは捨て去ればいい。
僕等は伝統的因習からはいまだ開放はされていない。

人と比べるな。
それが前向きな嫉妬でない以上は。





・・
今日この文章を書いたのは、昔の友人と久々に話していて、
「yoshkobは勝ち組だよね」といわれて、
窮屈な思いをしたためである。

公務員で結婚して、
というのは客観的価値(勝ち)ではない。

僕は主観として、
負けてはいないというだけだ。