よしこばブログ

13年間の国税局勤務を経て転身した、フリーライター小林の日常

治癒としての物語。父親として。


僕が欲しい物語はなんだろうって考えた時に、
「治癒」って言葉がまっさきに浮かびます。

あまりに久しぶりの日記で、何を書いてるのかっていうと、
僕が意識的に子供に分けてあげられるだろうことは、
物語を作ることではないかと、最近考えているから。
書きながら考えをまとめようかなって。

世界は相変わらず殺伐としているだとか、
人のつながりが希薄になっているだとか、
そうゆう現実の世界があるのだとして、
それでも「物語」というものから人は
何かの糸口を探し出すことができる。

ただし、物語は人を世界から疎外することも、
そのまんま成長の阻害となることもあるのだろう。
人生そのものを麻痺させることだってある。

僕がここ数年、テレビ番組をあまり見なくなったのは、
そこに隠れている「物語」に安心しきってしまっていることを
感じたからだ。
この場面で、このオチが来る。
この場面で、いくつかの展開がある。
脈々と続いてきた形式は確かに安心させる。
何にも考えなくっていい。
水戸黄門は最後に勝たなければいけない。
そしてクライマックスの前には、
いくつかの製品の広告を見る。

僕は、テレビを見る時に感じるなんとなくの空虚を
玄関で靴を履いたのに、どこに行ったらいいのか
分からなくなったある日の気持ちに重ねている。
そう。何かを決めるのは、それがわずかなことであれ、
苦しいことだ。

そこで、例えばある「物語」を必要とするのだ。
僕は思う。ただ、家を出るという単純な行為にすら、
裏には「ホビットの冒険」のビルボや、「はてしない物語」のバスティアンによる
励ましが働いているのかも知れないと。

子供を取り巻く環境がどうかは、よく分からないが、
物語は積み重なっていくものだと思う。
昨日より、今日の方が物語は増えていく。

子供を見ていると、あまりによく笑うので、
体がそのまんまファンタジーでできているような気になる。
もうじき、次の子も生まれるのだが、
彼らのファンタジーに僕は見とれてしまうだろう。

僕はそれを、大切にしたいと思う。
この世界を好きになる方法は
いくらでもある。
ただし想像しがたいことだが、
その方法の全てを見失ってしまうことも
あるのだ。

そういった時に、誰彼区別せず、
暗がりからひょいと拾い上げて、
無言で肩を叩いて頷いてくれるのが、
よき物語だと思う。

僕はまだ模索の最中です。
一生の内に、納得のいく物語が紡げるかどうか。
執着は既に離れた。
僕が欲しいのは重厚な装備ではなく、
軽やかな羽根だ。